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● 産経フォト より
なんで、ここで「アサヒスーパードライ」が出てくるのだろうか、と思ったら読んでみてください。
『
朝鮮日報 2011/04/10 12:01:55
http://www.chosunonline.com/news/20110410000023
【コラム】アサヒスーパードライが韓国で半額になったら
スーパーでいつも不思議に思う商品はアサヒビールだ。
ロッテマートで販売されている「アサヒスーパードライ」の350ミリ缶の価格は2650ウォン(約 209円)。
一方、同じ容量の韓国製のビールは1210ウォン(約95円)で販売されている。
不思議に思うのは、中間層が客の大半を占めるスーパーで、これほどまでに価格の差があるにもかかわらず、スーパードライが売れているという事実だ。
昨年、韓国ではスーパードライの350ミリ缶の売り上げが2400 万本に達した。
これはスーパーでの売り上げが大幅に伸びたことによるものだ。
「日本のビールはおいしい」という評価は韓国で特に根強い。
これは「韓国のビールはまずい」という評価の裏返しとなっている
。昨年、アサヒビールの荻田伍会長にインタビューした際、こうした評価について尋ねた。
これに対し荻田会長は「原材料や製造設備には差はないと思う」と答えた。
韓国ではよく
「日本のビールがおいしいのは、麦芽の含有量が多いためだ」
といわれているが、実際のところ、スーパードライは麦芽の含有量を減らすことによって大ヒットした商品だ。
麦芽100%をうたい、半値で販売される韓国製ビールを横目に、年間2400万本も売れるのだから、麦芽のせいでないことは明らかだ。
荻田会長は
「ビールは酵母、麦芽、熟成、温度管理、ホップの投入といったさまざまな技術的要素が組み合わさってできた製品だ。
製造工程における技術面でのちょっとした違いが、微妙な味の差を生んでいるのかもしれない」
と語った。
だが、荻田会長も味の違いがどのようなものなのかを指摘することはできなかった。
これは、経済学者の野中郁次郎・一橋大名誉教授の言葉を借りれば
「暗黙知(言葉で表現するのが難しい主観・直観的な現場の知識)」
といえるだろう。
2008年にインタビューを行った際、野中教授は
「暗黙知」が日本の産業にとって最大の強みだ、
と指摘した。
韓国のビールは、原材料や製造設備という面で、日本の
「形式知(文章や図表・数式などによって説明・表現できる知識)」
を受け入れることはできたが、暗黙知はまだ理解できていないというわけだ。
その違いはたとえ小さな違いでも、2倍の価格にもかかわらず売れる商品を作ったという結果を考えれば、決して侮れないものだ。
日本の産業の力は、このように言葉では表現できない要素によるところが大きい。
日本車に3年乗っている知人に
「韓国車よりどんな点で優れているか」
と尋ねたところ、返ってきた答えは
「長い間乗っていれば分かる」
というものだった。
あいまいな答えだが、強い確信を持っているように感じられた。
テレビの完成品から二次電池(充電式電池)に至るまで、韓国の産業が日本に追い付き、追い越す過程は、海のように深い日本の暗黙知を一つ一つ理解していく課程だったのかもしれない。
世界の経済専門家たちが日本の将来について楽観視しているのも、大地震や津波で未曽有の被害を受けたにもかかわらず、人間や組織の暗黙知は死ななかったという理由なのかもしれない。
韓国が経済のあらゆる分野で日本にとって最大のライバルとして認められたのは、ここ3年ほどのことだ。
これは、1ドル=120円の為替レートが70円台に跳ね上がるという「超円高」時代の到来と重なる。
この時期、日本経済は苦戦を強いられ、日本企業が行ってきた血のにじむような合理化の努力も実を結ぶことはなかった。
現場の暗黙知を総動員し、強い体制づくりを目指してきた日本企業は今、世界市場で十分に競争できる為替レートの水準を
「1ドル=85-90円」
程度に設定している。
東日本大震災をきっかけに、世界の為替市場で円安が進行している。
一方、韓国はウォン高が進行中だ。
しかし、大震災による混乱を収拾し、為替レートというベールを脱いだ瞬間
強くなった日本企業はモンスターのように韓国の前に立ちはだかる
ことだろう。
為替レートが3年前の水準に戻っても、
韓国は日本のライバルとして接してもらえるだろうか。
この問いは、アサヒスーパードライの価格が現在の半分になっても、韓国のビールがライバルになり得るか、という問いにも通じる。
今は韓国の実力や適正なレートについての冷静な分析が必要な時期だ。
』
「日本は無能」と、韓国の首相に蔑視されたは2,3日前のことだが。
それに反して、この記事なんだか脇の下から冷や汗がしたたり落ちてくるような内容である。
その一方で、「日本は無能」を「心の中に色濃く漂う生への虚無主義的態度」で説明しようとする記事もある。
そしてそれは「社会体制に失望した現在の日本人の怒りを眠らせている」となる。
日本人は現在の社会体制に失望しており、
その怒りすらも表現できない「無能な民族」
というわけである。
どちらにも解釈できるということは、やはり「不思議の国、ニッポン」である。
『
朝鮮日報 記事入力 : 2011/04/10 10:33:56
http://www.chosunonline.com/news/20110410000017
忍耐強い日本を読み解くキーワードとは
日本人は、特有の忍耐と克己、冷静さと落ち着きで危機を乗り越え、困難なときほど助け合い、他人に配慮するという国民性を発揮している。
列島は揺らいだが、日本人は揺らがなかった。
AP通信は
「大混乱の中でも略奪や盗みはほとんどなく、腹を立てたり不親切だったりする日本人が見られないことに、西洋の記者が驚いている」
と報じた。(3月17日付本紙既報)
大地震に遭遇した日本人が示した、冷静かつ控え目な対応スタイルが、全世界の関心を集めている。
災害に対処する日本人の心理状態が気になるなら、日本の社会心理学者・南博(1914-2001)が書いた『日本人の心理』(ソファ社)を読んでみることを勧める。
敗戦後の日本社会と日本人を冷静かつ客観的な目で見詰めるために書かれたこの本は、1953年に初版が出て以来かなりたつが、今でもルース・ベネディクト(1887-1948)の『菊と刀』(1946)と並び、権威ある日本人分析書に挙げられる。
日本人が、いかなる不幸に見舞われようともうろたえたり悲嘆したりしないのは、その心の中に
色濃く漂う生への虚無主義的態度
で説明される。
日本人は昔から、歌や文学作品などを通じ
「現世を無常と認識し、軽く眺めることが重要」
教え込まれてきた。
人生への無常観は、日本の支配者たちにとって、民衆の不平不満を「眠らせる」効率的な統治原理だった。
江戸時代の武士や第2次世界大戦中の神風特攻隊に、命を野の草と同じように感じさせたこの「無常観」は、今日の日本人の中にも、
不幸に対し消極的態度を取る心理的免疫法
という形で残っている。
日本人にとって、不幸に処するとき最も容易な「悟り」は、何も言わず、ひたすら耐えることだ。
日本人が「無限に耐える」ことができるのは、昔から支配者たちが下々に「問答無用」を強調し、
忍耐と服従が最高の美徳
だと説教してきたからだ。
江戸中期の禅僧・白隠(1685-1768)の梵讃(ぼんさん=仏・菩薩〈ぼさつ〉をたたえるサンスクリット語による詩句)にも
「この世は忍耐の世であって、とにかく思い通りになるものではない」
という一文がある。
何をさせても「はい」と言って服従する習慣を培っていけば、やがて「忍耐」という習性が生まれ、心は安らかに、気立ては穏やかになるというわけだ。
南は
「絶対服従の結果であるこうした諦念は、何か理由があってのものではなく、無条件な諦念あるいは無気力といえる」
と指摘した。
日本人は不幸に見舞われたとき、不幸な立場にあるのは自分だけではない、あるいはほかの人はもっと不幸な立場にあると考えて自分を慰める。
江戸時代の儒学者・貝原益軒(1630-1714)はこうした行為を重要な心の修養法と考え、大いに勧めた。
江戸時代、商人の間では
「上を見れば何かを望んでばかりの身になるが、自分ほどは恵まれない人もいる」
という意味の歌が流行した。
もちろん、こうした「無常観」が、
社会体制に失望した現在の日本人の怒り
をどの程度「眠らせて」いるのかは未知数だ。
南博の著作で日本人の心の中をのぞいてみた読者なら、米国の日本文化研究家ポール・バーリーの『日本文化史』(キョンダン社)=原題『Japanese Culture』=で日本文化全般に目を通すのも、日本を幅広く理解するのに役立つだろう。
1973年に初版が出て以来、改訂・増補を繰り返し、西欧の多くの大学で日本文化講義の教材として採択されている定番だ。
先史時代の日本人の起源から、現代作家・吉本ばななの文学世界まで、日本文化の変遷を年代記的に記述し、茶道・庭園・文学・音楽・美術・演劇・映画などを網羅している。
「日本は、前近代時代には中国から、近代には西洋から、豊富な文化的借用を行い、常に外国から借用したものを自分たちの嗜好(しこう)と目的に合うよう応用してきた」
というのが、著者の主張。
政治史と文化史を結び付けて平易に説明しているのが強みだが、日本文化と中国文化の関連性に言及しながらも、韓半島(朝鮮半島)との関連性を無視したり縮小・看過したりしているところに限界がある。
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さてこの、暗黙知と虚無心、
あるいは言葉で表現しえない何か、
とは明日の日本を甦らせる心理的原動力になりうるのか。
== 東日本大震災 ==
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